私が現在フィレンツェで2ヶ月と1週間という比較的長期間滞在している理由は3つあります。1つは現実的な仕事としての仕入れ(鞄やネクタイ、財布や小銭入れなど小物類)。2つ目はイタリア語の習得(友人が先生をしてくれ、文法の基礎から)。最後の3つ目は「人生の意味」を探しにです。
この3つ目の課題は、私がこの10年イタリアと通う中でいつの日か発露して来た課題であり、具体的に いつ という基点が有った訳ではありません。気がつけば存在し、そして年月と共に大きく成って来た課題です。
今回のフィレンツェ滞在において、この3つ目の課題に対して大きな刺激となる「知恵」を頂いています。それは、2つの事からその知恵を得ています。
1つは、今年の秋に私自身が設立予定であります「一般社団法人フィレンツェ文化基金」を通じて、フィレンツェの国会議員や職人達(マエストロ達)との対話の中でフィレンツェ文化について深くお聞きするチャンスに恵まれた事から、「文化とは何か?」という問いに出会った事です。
私自身がスーツの仕立て職人である事から、まさに西洋文化を仕事としている事に気づいたのです。正しくは、気づいてはいたのですが、よりその感触が強くなったと言うべきでしょう。私はスーツという個体の制作者でありながら、スーツ文化を中心とする西洋文化を正しく伝える役目も、同時に自分の仕事の中に内包されている事を知ったのです。それを知る事で自分の仕事の持つ「使命」を感じる事ができ、この「使命」が西洋哲学的な角度から言えば生きる意味に値する。今回の私の言葉でいう「知恵」と結びつく可能性を見ているのです。
そして2つ目、これがまさに目から鱗なのですが、イタリア語という言語を学ぶ中で、イタリア語の言語体系の中に、まさに西洋的な哲学が十二分に含まれている事を知りました。これに気づけたのは、私のイタリア語の先生である友人が、元西洋の歴史研究者であり、イタリア言語に対しても極めて深く精通している事が大きく作用しています。
例えば、イタリア語の英語で言う「be動詞」essere。この「essere」という一つの動詞の中に、いかに西洋哲学が内包されているかという話を聞きました。essereはいわゆる「=」を意味し、A=Bであるという事です。そしてA=Aでは行けないという法則があります。日本語にはこのessereという単語に変わる言語はありません。
まさに、この単語、この単語の持つ法則一つとってみても、その中に多くの西洋と東洋の思考の差が見て取れます。私は私。日本語ではこれで話を終える事が可能ですが、イタリアではそうはいきません。なぜならA=Aではいけない訳です。私=(私とは違う何か?)で表現される必要があるわけです。これはすべてに言える事で、この研究は?この仕事は?この人生は?となるわけです。
これを聞いた時、私の頭の中で何か千切れていた導線が繋がった気がしました。なぜ、イタリアにこの3つ目の答えを求めていて、そしていつの日かこの国でなら見つかる。そんな確信がずっとしていたのです。
まだまだ私の頭の中で、はっきりとした絵として表現出来ている訳ではないし、そうなる事はずっとずっと先の事だとは思います。しかし、今回のイタリア滞在が、この私の3つ目の答えに対しての大きな節目となる機会で有る事は間違いないでしょう。
思いきってこちらに来てよかった~。
そしてこの仕事に就いてよかった~。
そんな日を迎えています。
