2016年2月27日土曜日
儀式
フィレンツェでの日常生活の景色は
ルネサンスの巨匠達の芸術です
見たくなくてもすべてがそうなんですから
この街の凄さにはあたらめて驚きます
ミケランジェロ、ダビンチ、
ラファエロ、ヴァザーリ、
ブルネッレスキ etc,,,
こんな恐ろしいレベルの芸術に
囲まれて生きていると
いろんな意味でだんだん
感覚が変わってきます
なんだか小さな事がどうだって
よくなってくるというか
変な肩の力が自分から
どんどん抜けていくのを感じます
ちょっとやそっと
頑張ったぐらいで
どうにもならないって
これらの芸術を前に
本能的な部分で身体が
反応するんだと思います
目先のちょっとした欲望に執着し
取ってつけたような
小手先のテクニックで
自分を納得させ
畑違いの事に
一生懸命になって
人生の時間をどんどん浪費して
そんな日々にいったい何の意味があるの?
ってな具合に感じてしまうのです
しかしこの感覚は
諸刃の剣にもなる
という危険性も
また感じます
あまりにも行きすぎると
本当に社会復帰できなくなる
でもめったな事では
そんな所までは
行きませんけどね
しかし、
本当に人生を
心から充実させようとするなら
必ず一度はどこかで
価値観をニュートラルに
戻す作業というものは
必要だと思うのです
いままで培ってきた常識観や世界観を
全部否定しないまでも
一度肩から荷物を降ろすようにして
他の価値観や他の常識と
あらためて照らし合わせて
それを
頭で考えて比べるのではなく
心で感じて計る作業というのが
絶対に必要なのだと
私はフィレンツェという街で
そういった心の儀式的な作業を行う
素晴らしい機会を頂いています
なのでせっかくのこの機会を
本当に人生に活かして
行きたいと心から
祈るように思っています
2016年2月25日木曜日
密度
フィレンツェの職人仲間と
仕事の話や雑談をしていると
いろんな事に気付きがあります
しかしその気付きの多くは
インスピレーションに似たイメージであり
なかなか言葉に替えるのは難しい
しかしその一部をあえて言葉にして見ると
彼らは「発展」という事に
価値を見ていないように感じるのです
これが日本社会の持つ価値観と
決定的に違うところではないかと
では彼らは何に価値を見出しているのか
それは「喜び」ではないかと思うのです
発展=喜び
では無い
という事を彼らは知っている
発展という単品ではなんの意味もない
もし発展を得るなら その裏にしっかりと
なぜ発展しなくてはならないのか
発展する事で何を得て何を失うのか
その裏づけがしっかりと整わないと
彼らは動かない
ではなぜ彼らは発展に対して強く動かないのか?
それは発展を強く選択する事で
必ず重要な何かを捨てる事になると
風呂敷をわざわざ必要以上に広げすぎる事で
すべてが希薄な物語になってしまい
結局何の意味も無いものにしてしまう危険性を
彼らは魂の中ですでに知っているように
私には思えてならない
発展を求めるのを止めた時
内なる密度は濃くなる
2016年2月23日火曜日
文化をこえて
フィレンツェに来る度に
この街から感じる事がある
その内容は毎年少しずつ違う
この街の生活様式や日常的に彼らが抱いている価値観が
日本で感じてきたそれと全く違うのだから
そこには大きな感動もあれば戸惑いもある
フィレンツェの人々や友人達と
会話を共にする度に
どこまで彼らが言わんとしているニュアンスを
私は感じ取れているのだろうか?と
しばしば考える
彼らの発する言葉からはもちろんの事
彼らの微細な顔の表情や
視線の運び方から
精一杯ニュアンスを感じ取ろうとする
私の通訳をこちらで担当してくれている彼は
10年近くイタリアに住み
大変語学が堪能であるが
そんな彼ですら
イタリア人の表情から最後まで
ニュアンスを掴めない事も多々あると言うのだから
文化を超えた意思疎通というのは
本当に難しい事なのだと思う
勉強が嫌いな私ではあるが
少しずつでもイタリア語をさらにマスターし
今後もこの街と通い
彼らとのコミュニケーションを通じて
新しい発見や感動をしていきたいと
率直にそう思う
異文化には大きな感動が詰まっている
2016年2月19日金曜日
芸術から想う
私に合った美術品の見方が分かった
今回のフィレンツェ滞在は
とにかく毎日、街を散歩しながら
教会や美術館をまわっている
感覚がだんだん麻痺してくる
どれも同じに見えてくる
でも、それでも構わずにまわると
面白い事が起きてくる
アパートに戻り 歩き疲れた体を
ベットに横にさせて
くつろいでいると
走馬灯のようにいろんな
絵画のイメージが
湧き上がってくるのだ
人気はわざわざ頑張って
意識で見なくても
ちゃんと脳が見てるのだって
実感できたのだ
ミケランジェロやダビンチをはじめとした
芸術家は彼らの死から
数百年経った後も
作品の中で生きている
今までそのフレーズを幾度どなく
聞いてきたが
心でそれを感じられてはいなかった
しかし心で感じ始めると
もう小さな事がどうだって良くなってくる
自分のちっぽけさに諦めがついてくる
すると不思議に肩の力が抜けてくる
フィレンツェという芸術と文化のゆりかごに
ただ揺られる事で良くなってくる
フィレンツェ人は
なぜにこうも明るくて
話し出すとどこか哲学的で
良くも悪くもいい加減で
急に情熱的になったり
いくつもの事柄を同時並行出来なかったり
日々の暮らしに小難しい違和感や疑問を
持たずに生きれるのだろう〜?
こういった事が全部なるほど〜と
なんとなく腑に落ちてくる
この街と15年以上も通っているのに
まだまだ新しい発見がある
やっぱり芸術や文化は面白い!!
2016年2月17日水曜日
愛・自由・友
「好きに生きればいい」
フィレンツェに滞在していると
本当にそう思う
イタリア人は皆 自由に生きてる
だから自分も自由に生きれる
「大切にすべき」というアングルよりも
「大切にしたい」という自らの声に
耳を傾けるべきだと
フィレンツェは私に教えてくれる
考えるよりも感じる事の方が
何百倍も大切で
愛するという
心こそが最大の価値だと
人生での「友」
フィレンツェでの友情は
熱くそして深い
伝統や文化は
建築物や歴史の中にあるのではなく
そこに住む人々の魂の中に眠り
今も息づいていることも
人は挫折の中から多くを学ぶが
その心の傷も
フィンレツェは癒してくれる
癒して癒して癒されまくると
人は元気になる
2016年2月15日月曜日
癒しの洗礼
フィレンツェが私に与えてくれる
もっとも大きな洗礼は「癒し」なのだと思います。
なんとなく日本では
常に多くの方々に承認されながら生きなければ
不安になります
だから自分の心の声と向き合うことよりも
つい人の顔色ばかり気にしながら生きてしまいます
それはきっと小さなストレスではありません
〜しなくてはならない
〜するべきだ
〜でなくてはならない
こういった感覚ばかりに捉われますし
また、社会全体がそういった価値観を
強制してくるように感じます
自分のピュアな想いや素直な感覚などは
心の奥底にしまい込んでしまって
自分でも見つけ出すのが困難な程です
いつも他人からの目を気にしながらの日々
空気を読みながらの日々です
もちろん日本人がみんなそう感じながら
生きているとはいいませんが、、、
私にとってフィレンツェでの生活は楽です
こちらの人々は、良くも悪くも
周りの目を気にしながらなんて
生きていません
みんな1日という単位を自分の価値観で
生きています
だからだと思います
私もフィレンツェでは
自分が良いと思った事に集中できるのです
自分が良ければそれでいい
そんな生活が可能です
自分が良いと思っても
「周りはそんな自分の意見をどうおもうだろうか?」
というフィルターをいちいち通さなくてもいいのです
これは文化の違いでしょうね
本当にそう思います
特にフィレンツェはコニュニティーが
内側に閉じていますので
イタリアの他の地域よりもさらに
人々が干渉しあわないで生きています
そんなフィレンツェは
私に癒しを与えてくれます
癒されると人は元気になります
「元気があればなんでもできる!!」
闘魂のおじさまが言っている通りです!!
2016年2月12日金曜日
フィレンツェの無言な語り
フィレンツェに住んでいると
クリエイティブな気分になってくる
ミケランジェロやダビンチをはじめとした
無数の芸術家や職人達が今も昔も
この街で考え
この街で感じ
この街で制作を続けてきた
この街はクリエイティブなオーラが
今なお凝縮している
街を歩けばとにかく芸術に触れる
芸術をさけて歩く事は不可能で
さらに数多くの工房が軒を連ねており
工房を覗くと職人達が制作している生の姿を
見る事ができる
その姿はこの街が今も生きている事を
感じさせてくれる
多岐にわたるジャンルの工房
多岐にわたる表現の違い
それをこの街を歩く度に
ちょっと近くへ買い物に出かける度に
あたかもそうである事が当たり前のように
どっしりと、それでいて軽やかに
ルネッサンスからの物語を
今も綴り続けている街の姿を
見せられるのだ
そんな環境に身を置くと
職人の端くれとしては
自分も何か作りたいという衝動にかられるのは
大変自然な事のように思える
さらに生まれてくる衝動は
売れる為の物を作るという思いが薄れ
自分も美しいものを生み出してみたい
そんなシンプルな思いに帰る事ができる
心の中に現れては消える泡のような衝動
生まれては消える繰り返し
生まれそうで生まれず
生まれたと思っても凝視するまでには
消えてしまう
そんな泡のようなインスピレーションが続く
フィレンツェは
やっぱり偉大な街だと思う
この街とご縁を頂けて幸せだとも思う
人が考えるという行為の神秘さと
人が感じるという行為の豊かさを
フィレンツェの街は今日も変わらず
無言のオーラでエレガントに
私たちに語り続けている
ビアンキの居城に招かれる
また導きを感じた幻想的な夜だった。
フィレンツェの伝統行事である
カルチョストーリコは
フィレンツェを4つの地区に分けて
行われる古代式サッカーで
殴り合い蹴り合い有り
流血試合当たり前の
激しい伝統行事である。
4つの地区は色で分けられていて
サンタマリア・ノヴェッラ地区のロッソ(赤)
サン・ロレンツォ地区のヴェルデ(緑)
サンタ・クローチェ地区のアズッロ(青)
そして
サント・スピリト地区のビアンキ(白)である。
そのビアンキ(白チーム)の代表者が主催する
小さな会合に招かれた。
私は長年 ヴェルデ(緑チーム)の地区
サン・ロレンツォ地区を根城にしているので
この度の会合は敵陣に踏み入る感覚がして
大変緊張した。
この緊張感はフィレンツェをあまりご存知無い方には
なかなかピンと来ないだろうと思う。
フィレンツェは本当に小さな街であるにもかかわらず
この4つの地区は全く違うコミュニティーで
地区ごとに全く違うオーラがある。
この小さな会合はビアンキの居城ともいえる
教会を貸し切って行われていた。
教会内も案内して頂いた。
17歳のミケランジェロが作った木製のキリスト像
1300年代の聖歌の本が無造作に机の上に置かれている
最近まで扉を閉められていた書庫など
どれも世界遺産。
夜の教会で行われた大変幻想的な会合だった。
私にとっては、今日の会合で
4つの色の地区すべての教会を
コンプリートした。
初めてフィレンツェを訪れてから
15年かかった。
2016年2月7日日曜日
積み直し作業
今回のフィレンツェ滞在も
気がつけば1週間が経過しました。
毎度の如く順調にフィレンツェからの洗礼を受けています。
私にとってのフィレンツェの魅力とは
この街では私自身が大変シンプルになれるという事です。
フィレンツェの歴史と文化が育てた
この街の価値観やルールの中で生きる事で
「本来こうあるべきだ」
「こうしなくてはならない」
などの固定観念を一度崩し
もう一度フィレンツェの街を背景に
人生のイメージや価値観の
ブロックを積み直す作業。
これは仕立て屋としての服の勉強の
何十倍も重要な事です。
その積み替えられた新しい価値観が
今後も服作りにも影響する事は
いうまでもありません。
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