2017年1月23日月曜日

瞑想



最近は瞑想が一番楽しいです。
頭で考えることを消して行くと
心が浮き上がります。

瞑想は、自分に由る
という感覚を知ること
自分に由ることが出来たら
自在観を得ることが
出来るのだと想像します。

私たちは必ず死にます
死ぬ時には何も
あの世に持って行く
事は出来ません。

私たちは本質的には
何も所有出来ないのです
ティシュペーパー1枚
つまようじ一本
あの世には持って行けないの
ですから。

親も子も、愛する全ては
必ず死に、愛する街や
美しい教会も
いつの日か必ず朽ち果てます。

何も絶対的な存在なんて無いのです。

唯一絶対的な存在が有るとしたら
今、自分がここにいる。
それだけです。

だから、瞑想で
自分だけと向き合う事で
死と同化し
その感覚を通じて
自分が今
生きてる事を感じ
そこから生きる意味を
見出せるのだと
感じるのです。

地位や名誉、
財産や
この肉体さえも
あの世には
持って行けないのですから
それが分かるだけでも
心が軽やかになります。

考えることを少しでも辞めて
ただ感じるだけで
道は自ずと見えてくる。

使命なんてものは無い
有るとしたら
自分の性質、個性だけ。

自分の性質や個性が
何を求め、何を楽しいと思うのか?

自分に由るとは
その自分の性質や個性を
自分自身が
そのありのままを
受け入れる事。

それが出来て初めて
「自分が自分として生きる」と言う歩みが
ようやく始まるのだと感じます。

ただ心臓が動いてるだけでは
生きてる事にはならない
生きて死んでるような物
過去を引きずり
未来に不安を抱く歩みは
今を生きて無い証拠です。

今を生きる。

今の自分を感じて
それをただ受け入れる。
今日をどう生きたいのか?
すべて自分に聞けばいい。
自分を信頼して
自分を愛して
それができれば
人を信頼して
人を愛することもできる。

自分に由る
それが出来れば自在に
なれるのだと思うのです。

2017年1月9日月曜日

生と死「クリシュナムルティ」


「クリシュナムルティ」

過去、未来は今ここにあります
死も今ここにあります
もしあなたが恋人に自分の家具に執着するなら
執着しますよね?

そして死がやってきて言います
「もう終わりです」

あなたは執着から自由になれますか?

つまり、あなたは生きていながら
同時に死んでいるのです
やってみれば驚くべきものが見れます
あなたが執着している記憶、経験、失敗、野望、、、
すべては終わります

そこであなたは
死と共に生きることができますか?
つまり、今野望を終わらせることができますか?
野望なしに生きるのは途方も無いことです

つまり、生と死は
常に一緒に前進しているのです
それを理解したとき
そこには絶対的な自由感があります
自分の小さな苦痛からの開放感があります
時を超越したものを理解するのは
この全てを
生命の運動として理解するのです

2016年12月31日土曜日

濱田洋服店 休業のお知らせ


2017年2月末日をもちまして
濱田洋服店は一時休業させて頂きます
約1年の休業と現在は考えていますが
また途中経過などはブログやFacebookにて
お知らせをさせて頂きます

休業中は基本的にイタリアに滞在予定です
今までお買い上げ頂きましたスーツなどの
メンテナンスやサイズ直し
その他の件につきましては
Facebookメッセージ
または下記のEメールにてお声かけ頂ければ
可能な限り様々な方法で対応させて頂きたく
存じます
hamadayoufukuten1215@gmail.com

今まで濱田洋服店をご愛顧頂き
心から感謝申し上げます
休業を終え再び新しい体制で
日本に帰国する際には
今までとは また大きく違った感性と
新しい技術、そして新しい価値観で
また皆さまとお会いできますように
私ももう一度自分を信じて
意味ある道を探しに
再び1から積み重ねてみようと思っています
ありがとうございました

感謝御礼

  濱田晶行拝


2016年11月9日水曜日

✨人生一からのやり直し✨



✨ナポリの光の血を受け継ぐ挑戦と
人生一からのやり直し✨

ナポリで私の修行先が決まりました。
決まったと言えども、まだまだどうなるか分からないのがイタリアと言う国ではありますが。ひとまず内定を頂いたと言う段階でしょうか。

修行先は、世界で最高峰と謳われる
イタリアの金の鋏賞を受賞した
金の鋏5人衆と言われる中の1人
マエストロ ラファエッレ•アントネッリ氏のアトリエ「サルトリア アントネッリ」です。

ナポリは紳士服のイタリア仕立発祥の地。中でも彼はこの街にしか未だに存在せず、しかもこの街でもすでに極めて希少なナポリの至宝の技術を受け継ぐマエストロです。

蜘蛛の糸を手繰るように、偶然に偶然が重なり、彼にたどり着き来ました。

日本で16年間仕事をさせて頂いた職人グループが、今年を最後に解散となる事を聞き、当初は新しい職人を見つけにナポリを訪れる予定でした。しかしフィレンツェで新しい価値観を頂き
自分の人生を今一度見つめ直すきっかけを貰いました。この度のフィレンツェで得た新しいインスピレーションは大きなものでした。

家族を養う為と言う大義を振りかざし仕方なし仕方なしと胸に刻みながら、それがいつしか慢性化されて気がつけば 自分の中の光も後回し、家族の光も後回しになり、いつの日か何の為に何処に向かって歩いてるのかさえ分からなくなっている自分に気づかされたのです。私は毒が身体全身に回っている状態でした。

その毒をしっかりとデトックスしなければ、私も私の周りも みんな不幸になるそうフィレンツェの光達が教えてくれたのです。

生活の為、社会的な体裁の為、はたまた親への言い訳の為と歩いて来た道は、いつしか細く細くひ弱な土台に支えられた平行棒の上を歩くような道へと変化している事に気付いていなかったのです。

今年の年末を最後に、日本橋のオートクチュールサロンを閉める決意です。

世界最高峰の技術を得るには、年齢的にはもう不可能かもしれません。
でも、背水の陣で臨めばまだ可能性がある気がするのです。

夢を追うのに遅すぎる事はない。
そう、マエストロ アントネッリは、私の肩を叩いてくれました。

いつも私はストレスで一杯で、家族からも常に腫れ物に触るごとく接されるようになっていました。

自由になりたい自由になりたいと、神に祈りながら、自分自身で自らを縛り
どんどんと暗闇の中へと向かって歩く自分に気づかされたのです。

急に人間は変われない。
結局人間は変わらない。
そうも思います。

しかし変われるなら変わりたい。
まだ可能性があるなら
挑戦したいのです。

くだらないものを守る為に
最も大切な物から
逃げていた自分に気づかされた時
もう逃げちゃいけない。
ちゃんと恥をさらして
ちゃんと懺悔して
神の許しを得る事から始まる人生があるなら、たった一度の人生腐ったプライドや形だけ豪華な泥舟を捨て
真の光の道に軌道修正したい。そう願った時

この道で合ってる。

私の魂がそう確信するのです。

私は来年春より
新しい人生を求めて
全ての荷物を整理し
ナポリに旅立ちます。

2016年10月27日木曜日

懐かしきMilanoから


その道に長く携わっていくと
特に物を作る仕事は皆そうだと思うのですが
仕立て屋もただ服を作って売るというだけでは意味がない。
いや、全くをもって物足りないと感じてくるのです。

服とは何か?
私が作る服は誰のためのものか? 
服になんの意味がある? 
服に何が込められる? 
服で何が表現できる? 
服で何を残せる? 

20年間こんな問いと向き合ってきました。 

私が26歳の時、
一流と言われる仕立て職人を目指し 
異文化に初めて触れたこのミラノの街で 
お金も技術も無く、情熱だけが熱かった 
あの時とまったく同じホテルに泊まり 
我が仕立て職人としての人生を
今こうして振りかえります。 

20年間さまざまな問いと向き合い続ける事で 
おぼろげながら
私が作る服作りに対する意味を見つけ始めていると共に 
私が服を作る為の魂の豊かな源泉を見出しつつあります。 

その光は、なんとも芳しく、 
文化と芸術そして 
己の霊的ともいえる
アイデンティティーの太き柱を感じ 
それらと共に生きる一体感の中に
人生の豊かさを見出し 
「そのアングルと向き合うため」
に作られる服作りこそが 
「MASAYUKI HAMADAが作る服」
に対する意味の答えであり、 
また私が服を作る為の魂の力の
豊かな源泉がそこにあると。 

この芳しいインスピレーションが 
今後さらに強く実感できるものとして 
私自身が味わう事が出来たらならば 
私の仕立て屋としての人生も 
私個人としての魂も 
また一つ大きな節目となって 
さらに味わい深いものになる気がしています。


   2016.10.27 IN MILANO

2016年9月30日金曜日

転化


秋冬物のご注文をたくさん頂き始めて
制作作業も日々進めている時期です。
日本で作っていきたいクオリティーバランスの良い
生地を発注してお勧めしています。

毎年毎年同じ時期が来ると
生地を選びスーツを作成する。
こんな生活を18年も続けて来ました。
昔も今も生地を選ぶときには
一種の緊張感と
素晴らしい生地を見つけたときの喜び
良い生地を安く仕入れらてたときには
これはお客様に喜んでもらえるな〜という
喜びを感じて選びます。

どんな生地を選択すべきか?

スーツ制作の専門家として
自らに問い
毎年積み上がっているであろう
自らの経験やインスピレーションに頼り
内なる声と相談します。

昔は、
「どんな生地が売れるかな〜」
という視点がほとんどでした。

しかしいつの日からか
生地と会話するように選ぶようになり
自分の声が届く生地
一段階 上に引き上げられるような生地
ノイズが無く澄み切った生地
そんな生地を求めるようになってきました。

私が作る服は、
労働のための作業着ではなく
日本社会で機能的に使い易い服でもなく
なんというか、精神的に清く純粋で
体よりもむしろ精神的な何かと一体になるような
そんな服を作れるようになりたい。
そう感じるようになってきました。
それはやはりイタリアから受けた
影響が大きいと思います。

ミケランジェロが作った彫刻を
デッサンし、
ブルネッレスキの建築を日々眺め、
美術館や宮殿で見る
多くのテンペラ画や
フレスコ画から感じるものは
ただの商品を超えた
後世にまで大きく影響をあたえる
作品としての姿です。

もともと絵や彫刻に大きな興味がなくても
15年以上もあんなのを
身近に眺めざる得ない環境に置かれると
さすがに何かが伝わってきます。

フィレンツェで感じる
あのなんとも言えない
圧倒的な存在感ある街の姿
そしてそこに住む人々や文化
この心の熱を私なりに
自分の作るものへ転化したい
素直にそう思うのです。

2016年9月14日水曜日

言葉


イタリア最南端
プーリア地方ガリーポリの
オリーブの樹です。
300歳だそうです。

彼はここで300年もの間
何を見て
何を感じて
今 何をおもっているのでしょうか?

禅僧が、ただ壁に向かって座する如く
彼はただ300年間この地にたたずんでいます。
彼は言語を持ちませんが
彼はこうしてたたずんでいるだけで
私に多くを語ってくるように感じます。
私たちにとって言葉とは何でしょうか?

私は15年間以上もイタリアと通っていながら
ずっと通訳の方に頼りっきりだった為に
まだまだ上手にイタリア語を話す事ができません。
しかし今こうしてフィレンツェに住むようになって
フィレンツェの人々との交流が深まっていく中で
いよいよイタリア語の勉強から逃げられなくなって来ました。
毎日こつこつと単語を覚えたり
イタリア語をYouTubeで聞いたりを
始めています。

上手に話せないまでも
フィレンツェで過ごしていると
イタリア人の友人達と
なんとかしてイタリア語で
コミュニケーションをとるわけですが、
とにかく知っている単語を工夫して並べて
相手の顔色から伝わったかどうかを確認しながらの日々です。

フィレンツェのコニュニティーに
深く入らせて頂ければ頂くほど
自分が日本人であり、
フィレンツェでは外国人である事が
浮き彫りになってくるように感じています。

日本人として
などど、偉そうには言わないまでも
一人の外国人として私は
彼らと何を話し何を交換できるか?
いつも考えながら慎重に向き合っています。

異国の方々との交流
それは言語の巧みさではやっぱりありません。
1番大切なのは言語能力ではなく
自分の体からどんな「心」が出てくるか?です。
言語が違う人々との交流は「心」を言語に変えてこそ
そこに奇跡が生まるのだと思います。

言葉が上手に話せなくても
伝わる事は山程ある。
そんな体験を一杯重ねて来ました。

しかしながら、だからといって
言語を学ばなくても良いというわけでは無いのは
当たり前の事です。
ただ言語の上達が優先順位1番では無いという
確信はあります。

現在少しずつですが
さらにイタリア語が上手になるように
勉強を重ねながら
深いご縁を頂き始めている
イタリアの方々とさらに交流して
今後どんな素晴らしい物語になるのかは
自分の心の中の豊かさが
ただ鏡に映し出されるようなものだと
感じています。

イタリア語と共に
心も豊かになって行きたい
そのためにこれからも
挑戦していきたいと思っています。

2016年8月30日火曜日

夏のインスピレーション


毎回フィレンツェに滞在すると
何かしらのインスピレーションを自分自身でも求めますし
嬉しい事にちゃんと受ることができています。
そのインスピレーションとは
私自身の今後の課題や歩くべき道という感覚で受けます

前回は「新しい一歩・ありのまま・脱力の素晴らしさ」でした。
新しい一歩は、私の家族がフィレンツェへ移住するという展開となりました。
ありのままや、脱力の素晴らしさは
なかなかすぐには体得するのが困難。。。
日本ではみんな忙しそうにしているので
仕事や人間関係などについ力が入ってしまいます。

今回の夏の滞在は
・自分がどう感じるかに自分自身がちゃんと向き合うこと
・単純さシンプルさの美
・自立と解放
・自らに由る→自由
こんなキーワードがフィレンツェでの生活から浮かび上がってきました。

日本の社会では、自分自身を見るときに
つい他人にどう自分がどう映っているか?
というように他人を自分の鏡として見る習慣がついています。
ですので、他人の目や他人の評価に左右される事なく
自分の目や耳を信じ、舌や感性を信じると言った事に
集中した事がほとんど無い気がするのです。

お釈迦様の言葉でもある
「自らに由る」は、
いわば生の自分との出会いであり
私にとって大変新鮮なものに感じるでしょう。

もちろん生の自分との出会いは
若干の怖さもあります。
もし空洞だったらどうしよ〜とか。。。

でも、その怖さを乗り越えて
たとえどんな自分であったとしても
そのありのままの自分を受け入れよう
という意識を得ることができれば
自分以外の他人への「ゆるし」や
究極には「愛」につながっていく気がするのです。

仏教やキリスト教の世界でも
魂の肉体からの解放
というニュアンスや
ミケランジェロなどは
大理石からの解放と言って
「私は大理石に閉じ込められた囚人を
解放しているだけだ」と
自らの大理石彫刻を語ったそうです。

一般常識とか今までの慣習や
思い込みから意識を解放していくことで
新しく見えたり感じたりする世界にも
興味がありますね。

2016年8月28日日曜日

素朴な疑問こそ大切にしたい


フィレンツェでの私のテーマは

「とにかく遊ぶ」
「とにかく楽しむ」
です。

これは、人生の為にも
人としての精神衛生の為にも
家族の為にも
そして仕事の為にも
本当に大切な事なんだと
感じています。

何の為に人は生きるの?
生きるってなに?
何の為に仕事するの?
仕事ってなに?
と言う素朴な問いにこそ
私たちはしっかりと
向き合うべきなのだと思うのです。

この素朴な問いに
自らが納得の行く答えを導き出すには
「楽しい」が無くては絶対に完成しません。

仕事とは、自分以外の人を幸せにして
その対価をもらう。
これが原点なのだと思います。

自分が不幸なのに
人を幸せにする方法なんて
絶対に思いつきません。

まずは自分が幸せを思いっきり感じて
「あ〜これが幸せというものかな〜」が
あってこそ、
その幸せを人様にどうやったら伝えられるか?
どうやったら人様も幸せになるだろう?
となる事ができます。

この視点が仕事の出発点にならなきゃ
ただの金儲けだけを続けられる人って
私は特別な人だと思います。

それだけ楽しむ事や遊ぶ事って大切な事なのに
日本では遊んでいると
何故か「罪」のような感覚を覚えます。
世界が認める「働き者で真面目な日本人」という
長所もあります。
たしかに世界では日本人に対して一定のリスペクトはあります。
しかし、そのリスペクトには少しの影が必ず付いています。

その影とは、「何故?」
です。
彼らは、「何故日本人はそこまでできるの?
そこまで働くの?
何のために?
何故?」
という、日本人を不思議に思う
眼差しが熱く熱く注がれているのです。

これは、実は日本人自身だって
自分たちの社会に
「何故なんだろう〜?
なぜこんなにも働いているんだろ〜?」って
みんなどこか思っている節があって、
ただ、周りがみんな働いているから
自分だけ周りと違った行動を
取りにくい社会だから
「こんなもんさ」「仕方ないよ」
「他になかなか選択肢ないもん」
という感じになっているのだと思います。

本当に日本では、この「働き癖呪縛」から
解き放たれるのは大変困難です。
個人レベルでは不思議に感じていても
社会がそれを許さないんですよね。

団塊の世代は、まだマシです。
ゼロから作り上げる楽しさが
まだありました。
だから引退後の今も元気ですし
なんと無く自分の人生に
納得している人が多い気がします。

しかし団塊の世代ジュニアから
社会を不思議に思うオーラは全開です!!
人生はなんのために?とか
人生の豊かさとはなに?とか
働くってなに?
といった疑問がこの世代からボカーンと噴出します。

でもやっぱり、
幸せになりたいなら
その素朴な疑問から
目を背けたり
ごまかしたりするのはダメだと思うのです。
やっぱり、どこかのタイミングで
真正面からぶつかってみる事が
必要だと思うのです。

社会の常識とか
周りの人の習慣とかを
一度横に置いて
視野を広げて自分自身の心に素直に向き合う
それが純粋な楽しみを追いかけること
簡単に言えば「心を遊ばせること」
なんだと思うのです。

だから、日本を離れてフィレンツェにいる間は
それを実行する絶好の機会なのです。

素朴な疑問に
これからもこつこつと
取り組んで行きたいと思っています。

2016年7月28日木曜日

フィレンツェという不思議な街


その理由をわざわざ見つけようと言う気にもならず、
この街にいるだけで幸せに包まれます。

この街は、たった1日を豊かにする為の
全てが揃っている様に感じます

1日が確実に豊かになる

その事は大きな意味に繋がります

人生は1日の繰り返し

よって
この街にいると
人生が豊かになる事は
すでに決まっている

そんな気になるのです

昼間は
街が生きている音がします

そして
夜は静寂に包まれます

行き交う人々が皆それぞれの人生を他人と比較せずに生きているので、自分の人生に干渉してくる人は誰もいません

なのに孤独ではありません

それは
この街自体が母であり
ゆりかごなのです

ゆりかごに揺られている
この街に住む人々は、
ただただ安心して
揺られているだけでいい
この街で暮らし始めると
その様に 脳ではなく
魂が感じているかの様です

この街の人々は
本当に笑顔がいいです
この街の人々の笑顔に
日々沢山出会います

本当に不思議な街です

2016年7月26日火曜日

愛される条件


「愛される条件」

愛されるために条件なんてあるのだろうか?
人々を観察していると
結局人は皆 愛を求めて歩いている様に見える
だれもが愛を探している。

愛に交換条件なんてない
愛は見返りを求め無いもの

愛は
ただ愛するという事で完結する姿
ただ愛されるということで完結する姿

日々いろんなことがあるが
愛と無縁の生活を続けていると
どんどん魂が朽ち果てていく

もし豊かな人生を手に入れたいと思うのなら
愛をテーマに日々生きるべきだと思う

愛を感じて生きるのは
何よりも充実する

愛されるための条件なんて
本当は無いとおもうが
愛されるために
自分がやらなくてはいけないことを
こつこつやる姿は美しいと思う

人生は死ぬまでの暇つぶし
同じ暇をつぶすなら
愛し愛される時間で潰していきたい

2016年7月1日金曜日

フィレンツェ移住


私の家族が7月からフィレンツェに移住します。
娘はすでに出発しました。

私もこれからは半分日本で半分フィレンツェという生活が始まります。
なぜフィレンツェに移住するのですか?お仕事ですか?と日本の方々からはよく聞かれます。確かに仕事もありますが、仕事なら日本にいた方がずっと仕事にはなります。今回の移住の最大の目的はシンプルに私の「夢」です。フィレンツェに住みたい。ただそれだけです。もちろん住みだしたらフィレンツェでも仕事が出来てくるだろうし、すでにいくつかの案件を頂き始めています。

人生の多くの時間を、過ごしたい街で過ごす。

私の思いは大変シンプルです。
フィレンツェと出会って15年
ようやくフィレンツェに住むチケットを手に入れました。
もうすぐ42歳。人生の折り返し地点
残りの人生を妻や子供達や仲間たちと
どれだけ豊かに過ごせるか。
私の挑戦は続きます。

2016年6月25日土曜日

母なる小さな街


 自らの思いを表現することにどれだけの意味があるのか分からないが、自然に湧き出る思いは生きているということと深い関係にあると思うので、恥を忍んでこうして思いを連ねるようにしている。今日もたわいも無い思いを書き連ねようと思う。

 イタリアは日本と違って1点に集まる東京という都市が無い。よってそれぞれの街が未だに歴史に裏付けされた独自性を維持している。それぞれの街の人が 自らの街を愛し、誇りに思い、そして自分を育てた母のように自らの郷土に思いをはせる。イタリアの人々は実の母とともに街もまた彼らを育てている。

 日本も昔はそれが当たり前だったろうし、今も田舎ではそういった空気も残されている所も多いのかもしれない。しかし東京に近い首都圏に住んでいる私は、まさに根無し草のように心の郷土を持たない。この不安定さはなんとも寂しいもの。日本で知り合いは多いが友人は少ない。日本はみんな忙しすぎて友人を作る暇も無いと思えるほどだ。

 フィレンツェでは毎週末いつものバーやレストランにいつものメンバーが集まって たわいもない話をして食事を共にしたり、近い場所でみんな働いているので、わざわざ週末でなくても絶えず誰かとのプライベートな交流にあふれている。
それが小さな街、小さなコミュニティーでずっとずっと長く人生を過ごす魅力であると思う。

 私のフィレンツェの友人のパオロとガブリエッレは、毎日のように電話で連絡を取り合い、その仲の良さは日本人的な感覚からすれば本当に驚くほど。でもそうして幸せそうな彼らの姿を長く見ていると、彼らのライフスタイルを本当に羨ましく思うのです。

 幸せになるのには、何もかも揃う大きな都市なんていらない。数え切れないたくさんの友人もいらない。多様な食材を使った世界中の美食もいらない。小さな街で小さなコミュニティーで一見地味な生活の中にこそ大きな温もりと凝縮された色濃い充実があるのだと。

2016年6月19日日曜日

光を求める


「私たちは人工物に疲れている」
単純にそう思う

「最先端のイノベーションで、かつてないソリューションを!!」

多くの企業がこんな課題に向けて日々努力している

現代社会の高度に上昇していく機能性や利便性は
労働者をいつでも取り替え可能な部品へと導き
生活者をモルモットのようなライフスタイルに
誘導していく

東京駅を行き交う恐ろしい数の人々
その目にすでに光はなく
ただ流されることを受け入れ
部品としての生き方に
だんだん違和感もなくなり
多数に埋没することが
正しい生き方だと自己暗示にかけるように。。。

いつまでこんな歩みを続けるのだろうか?

巨大な企業のオーナーや経営者の方々の服を担当し
最近はTVや雑誌などでも私の作ったスーツを見ることも増えてきた

私はどんなスーツをこれから作っていくのか?
「作るべきスーツ」というアングルは20年やってきた
これからは作りたいスーツを作っていきたい!!✨✨

今、日本の社会に必要なのは
いい意味で歩みを緩めること
速度を変えて見える景色を変えること
少し目をつぶって
今まで耳に入って来なかった音に
耳をすますこと
ランチをゆっくり味わうこと
深呼吸をすること
少し遠出をしてリズムをかえること
山や海に体を委ねること

地球の自然のリズムに調和して行きながら
あらためてありのままの人間社会と
少しでも違和感のない接点を模索することだと思う

誰もがスケジュールに追われる日々
しかし明日や明後日ではなく
2時間先でもなく
「今」と自然に向き合うことができたとき
私たちの生活は光を取り戻すのだと思う

2016年6月17日金曜日

私のファッション業界嫌い


 私はファッション業界にほとんど友人を持たない。はっきり言って気の合う人がほとんどいない。不思議な位に価値観が合わない。仕事に対するアングルが違い過ぎる。センスも合わない。哲学も合わない。ファッション業界の人から勉強になる事が本当に少ない。しかし職人さんは別である。まじめな職人さんからは得ることばかり。未だに教えて頂いてばかりだ。職人さんは素晴らしい‼︎

 現在、フィレンツェではピッティーイマジネ ウォモ と言うメンズプレタポルテの世界的な展示会が行なわれている。つい7年前位には、私もこの展示会に来場する世界のバイヤー達や出展者のファッションに感動して、メモを取りながら勉強してた。しかし最近は本当に興味を失ったし、ピッティーの来場者達のファッションに違和感しか持たなくなった。彼らがファッション業界の王道なら、私はファッション業界の人間では無いと思う程の違和感を感じている。あの世界は文化には成らないし、なってはいけない。私達の人生の血液に流すには あまりに添加物が多すぎる。ストレスしかない。

私は私の信じる道を歩いて行きたい。

2016年6月5日日曜日

思考


思考が宇宙を創っている
最新の量子力学がだんだんそれを証明して来ている
我思うゆえに我あり
デカルトもそれを知っていたのだろうか

悩み、病、犯罪、自己、怪我、
はたまた
幸運、愛、豊かさ、健康
そして宇宙全体までが
それらすべてが私たちの一人一人の思考によって
生み出されているとすれば
この世はあまりにファンタジー

面白きこともなき世をおもしろく

すべては我次第
すべてはあるがままなりて

2016年3月28日月曜日

待つ


私の日本橋オートクチュールサロン
開設から約1年半
まだたったそれだけですが
数多くの物語が綴られ
数多くのスーツたちが
この部屋から引き渡されて行きました

私は今 仕立て職人として
大きな切り替わりの間に
立たされていると感じています
正しく導かれるように
心をシンプルにして
良質なインスピレーションを待ちたいと思います。

2016年3月22日火曜日

確かな物


日本は確かな物を見つけるのが難しい
明日どうなるかわからない
常に脅迫観念を心の一定の場所から
動かせられない
確かな物が見つからないから
確かな物が欲しくなる
だから日本人は世界一所有したがる国民だそうだ
たしかに40歳で35年ローン
75歳まで払い続けるなんてプランが
全然不思議に思わない国って
異常なんだと思う

そしてそういう大きな買い物以外には
お金を使わない
年金暮らしでも
しっかりと退職金は貯金
死んだ後のことまで準備周到で
生命保険にもちゃんと入ってる
もちろん運用なんて危険なことはしない
では、なんの為に貯蓄?
それはいざという時の為
いざという時って?
それは分からない。。。

この国が失った物は大きい
芸術や文化が無くなった訳ではない
芸術や文化に目を向ける時間と
その感性を失ってしまった
再び確かな物に目を向けられる日はいつなのだろう

確かな物は物体ではない
確かな物は心を得るということ
友情や愛情の中にこそ
人間が確かだと信じれるものがある

すべてが朽ち果てても残る物
それは心のエネルギー
それさえあれば再建できる
私の第2の故郷
ルネサンス発祥の地
フィレンツェが
そう私に語りかけてくれる

2016年3月12日土曜日

決意



フィレンツェのマエストロ達に
夏から私がフィレンツェに
引っ越してくる
お知らせを出しました

みんな私がアパートを探してる事は
知ってたけど、
こんなに早く引越して来るとは
思ってなかったみたいです
みんな凄いびっくりしてました(^^;;

さて、彼らから
私の一生で
どれだけの事を吸収出来るでしょうか?

中世から脈々と続く
「ルネサンスの魂」
焦ったところで手に入るものでは
ありません
ただこの地に住んだだけで
手に入るものでも
絶対にありません

ルネサンスの魂とは
技術でもなく
哲学でもなく
それは一種のエネルギー体の様であり
光と同化するような
異次元の愛の世界

こちらのマエストロ達は
知らず知らずの間に
そのエネルギーを
聖母マリアや
聖霊(サントスピリト)
洗礼者ヨハネの中に
感じているように思います

私もその高みに辿り着く為には
全てを捨てて
一生を捧げる位の覚悟が必要で
その価値が充分にあるものだと
感じています

求めても得れない様な気が
ずっとしていました
求めるには
まだまだ遠い気がしていました

しかしイエスは言いました
「求めなさい」と
イエスの言葉を信じるような
信仰心は まだ私にはありませんが

考えて見れば
あっと言う間の刹那な人生です

「求めて見ようか」

そう決意した次第です

2016年3月2日水曜日

伝承



今回のフィレンツェ滞在で先輩マエストロの背中から伝承されたメッセージ

「商品作りとはお客様と向き合う事
作品創りとは神と向き合う事」

2016年2月27日土曜日

儀式


フィレンツェでの日常生活の景色は
ルネサンスの巨匠達の芸術です
見たくなくてもすべてがそうなんですから
この街の凄さにはあたらめて驚きます

ミケランジェロ、ダビンチ、
ラファエロ、ヴァザーリ、
ブルネッレスキ etc,,,

こんな恐ろしいレベルの芸術に
囲まれて生きていると
いろんな意味でだんだん
感覚が変わってきます

なんだか小さな事がどうだって
よくなってくるというか
変な肩の力が自分から
どんどん抜けていくのを感じます

ちょっとやそっと
頑張ったぐらいで
どうにもならないって
これらの芸術を前に
本能的な部分で身体が
反応するんだと思います

目先のちょっとした欲望に執着し
取ってつけたような
小手先のテクニックで
自分を納得させ
畑違いの事に
一生懸命になって
人生の時間をどんどん浪費して
そんな日々にいったい何の意味があるの?
ってな具合に感じてしまうのです

しかしこの感覚は
諸刃の剣にもなる
という危険性も
また感じます
あまりにも行きすぎると
本当に社会復帰できなくなる
でもめったな事では
そんな所までは
行きませんけどね

しかし、
本当に人生を
心から充実させようとするなら
必ず一度はどこかで
価値観をニュートラルに
戻す作業というものは
必要だと思うのです

いままで培ってきた常識観や世界観を
全部否定しないまでも
一度肩から荷物を降ろすようにして
他の価値観や他の常識と
あらためて照らし合わせて
それを
頭で考えて比べるのではなく
心で感じて計る作業というのが
絶対に必要なのだと

私はフィレンツェという街で
そういった心の儀式的な作業を行う
素晴らしい機会を頂いています
なのでせっかくのこの機会を
本当に人生に活かして
行きたいと心から
祈るように思っています

2016年2月25日木曜日

密度


フィレンツェの職人仲間と
仕事の話や雑談をしていると
いろんな事に気付きがあります
しかしその気付きの多くは
インスピレーションに似たイメージであり
なかなか言葉に替えるのは難しい

しかしその一部をあえて言葉にして見ると
彼らは「発展」という事に
価値を見ていないように感じるのです

これが日本社会の持つ価値観と
決定的に違うところではないかと

では彼らは何に価値を見出しているのか
それは「喜び」ではないかと思うのです

発展=喜び
では無い

という事を彼らは知っている
発展という単品ではなんの意味もない
もし発展を得るなら その裏にしっかりと
なぜ発展しなくてはならないのか
発展する事で何を得て何を失うのか
その裏づけがしっかりと整わないと
彼らは動かない

ではなぜ彼らは発展に対して強く動かないのか?
それは発展を強く選択する事で
必ず重要な何かを捨てる事になると

風呂敷をわざわざ必要以上に広げすぎる事で
すべてが希薄な物語になってしまい
結局何の意味も無いものにしてしまう危険性を
彼らは魂の中ですでに知っているように
私には思えてならない

発展を求めるのを止めた時
内なる密度は濃くなる

2016年2月23日火曜日

文化をこえて


フィレンツェに来る度に
この街から感じる事がある
その内容は毎年少しずつ違う

この街の生活様式や日常的に彼らが抱いている価値観が
日本で感じてきたそれと全く違うのだから
そこには大きな感動もあれば戸惑いもある

フィレンツェの人々や友人達と
会話を共にする度に
どこまで彼らが言わんとしているニュアンスを
私は感じ取れているのだろうか?と
しばしば考える

彼らの発する言葉からはもちろんの事
彼らの微細な顔の表情や
視線の運び方から
精一杯ニュアンスを感じ取ろうとする

私の通訳をこちらで担当してくれている彼は
10年近くイタリアに住み
大変語学が堪能であるが
そんな彼ですら
イタリア人の表情から最後まで
ニュアンスを掴めない事も多々あると言うのだから
文化を超えた意思疎通というのは
本当に難しい事なのだと思う

勉強が嫌いな私ではあるが
少しずつでもイタリア語をさらにマスターし
今後もこの街と通い
彼らとのコミュニケーションを通じて
新しい発見や感動をしていきたいと
率直にそう思う

異文化には大きな感動が詰まっている

2016年2月19日金曜日

芸術から想う


私に合った美術品の見方が分かった

今回のフィレンツェ滞在は
とにかく毎日、街を散歩しながら
教会や美術館をまわっている

1日で何箇所もまわると
感覚がだんだん麻痺してくる
どれも同じに見えてくる
でも、それでも構わずにまわると
面白い事が起きてくる

アパートに戻り 歩き疲れた体を
ベットに横にさせて
くつろいでいると
走馬灯のようにいろんな
絵画のイメージが
湧き上がってくるのだ

人気はわざわざ頑張って
意識で見なくても
ちゃんと脳が見てるのだって
実感できたのだ

ミケランジェロやダビンチをはじめとした
芸術家は彼らの死から
数百年経った後も
作品の中で生きている
今までそのフレーズを幾度どなく
聞いてきたが
心でそれを感じられてはいなかった

しかし心で感じ始めると
もう小さな事がどうだって良くなってくる
自分のちっぽけさに諦めがついてくる
すると不思議に肩の力が抜けてくる
フィレンツェという芸術と文化のゆりかごに
ただ揺られる事で良くなってくる

フィレンツェ人は
なぜにこうも明るくて
話し出すとどこか哲学的で
良くも悪くもいい加減で
急に情熱的になったり
いくつもの事柄を同時並行出来なかったり
日々の暮らしに小難しい違和感や疑問を
持たずに生きれるのだろう〜?

こういった事が全部なるほど〜と
なんとなく腑に落ちてくる
この街と15年以上も通っているのに
まだまだ新しい発見がある
やっぱり芸術や文化は面白い!!


2016年2月17日水曜日

愛・自由・友


「好きに生きればいい」
フィレンツェに滞在していると
本当にそう思う
イタリア人は皆 自由に生きてる
だから自分も自由に生きれる

「大切にすべき」というアングルよりも
「大切にしたい」という自らの声に
耳を傾けるべきだと
フィレンツェは私に教えてくれる

考えるよりも感じる事の方が
何百倍も大切で
愛するという
心こそが最大の価値だと

人生での「友」
フィレンツェでの友情は
熱くそして深い

伝統や文化は
建築物や歴史の中にあるのではなく
そこに住む人々の魂の中に眠り
今も息づいていることも

人は挫折の中から多くを学ぶが
その心の傷も
フィンレツェは癒してくれる
癒して癒して癒されまくると
人は元気になる




2016年2月15日月曜日

癒しの洗礼


フィレンツェが私に与えてくれる
もっとも大きな洗礼は「癒し」なのだと思います。

なんとなく日本では
常に多くの方々に承認されながら生きなければ
不安になります
だから自分の心の声と向き合うことよりも
つい人の顔色ばかり気にしながら生きてしまいます
それはきっと小さなストレスではありません

〜しなくてはならない
〜するべきだ
〜でなくてはならない
こういった感覚ばかりに捉われますし
また、社会全体がそういった価値観を
強制してくるように感じます

自分のピュアな想いや素直な感覚などは
心の奥底にしまい込んでしまって
自分でも見つけ出すのが困難な程です
いつも他人からの目を気にしながらの日々
空気を読みながらの日々です

もちろん日本人がみんなそう感じながら
生きているとはいいませんが、、、

私にとってフィレンツェでの生活は楽です
こちらの人々は、良くも悪くも
周りの目を気にしながらなんて
生きていません
みんな1日という単位を自分の価値観で
生きています
だからだと思います
私もフィレンツェでは
自分が良いと思った事に集中できるのです
自分が良ければそれでいい
そんな生活が可能です
自分が良いと思っても
「周りはそんな自分の意見をどうおもうだろうか?」
というフィルターをいちいち通さなくてもいいのです
これは文化の違いでしょうね
本当にそう思います

特にフィレンツェはコニュニティーが
内側に閉じていますので
イタリアの他の地域よりもさらに
人々が干渉しあわないで生きています

そんなフィレンツェは
私に癒しを与えてくれます
癒されると人は元気になります
「元気があればなんでもできる!!」
闘魂のおじさまが言っている通りです!!

2016年2月12日金曜日

フィレンツェの無言な語り



フィレンツェに住んでいると
クリエイティブな気分になってくる
ミケランジェロやダビンチをはじめとした
無数の芸術家や職人達が今も昔も
この街で考え
この街で感じ
この街で制作を続けてきた
この街はクリエイティブなオーラが
今なお凝縮している

街を歩けばとにかく芸術に触れる
芸術をさけて歩く事は不可能で
さらに数多くの工房が軒を連ねており
工房を覗くと職人達が制作している生の姿を
見る事ができる
その姿はこの街が今も生きている事を
感じさせてくれる

多岐にわたるジャンルの工房
多岐にわたる表現の違い
それをこの街を歩く度に
ちょっと近くへ買い物に出かける度に
あたかもそうである事が当たり前のように
どっしりと、それでいて軽やかに
ルネッサンスからの物語を
今も綴り続けている街の姿を
見せられるのだ

そんな環境に身を置くと
職人の端くれとしては
自分も何か作りたいという衝動にかられるのは
大変自然な事のように思える

さらに生まれてくる衝動は
売れる為の物を作るという思いが薄れ
自分も美しいものを生み出してみたい
そんなシンプルな思いに帰る事ができる

心の中に現れては消える泡のような衝動
生まれては消える繰り返し
生まれそうで生まれず
生まれたと思っても凝視するまでには
消えてしまう
そんな泡のようなインスピレーションが続く

フィレンツェは
やっぱり偉大な街だと思う
この街とご縁を頂けて幸せだとも思う

人が考えるという行為の神秘さと
人が感じるという行為の豊かさを
フィレンツェの街は今日も変わらず
無言のオーラでエレガントに
私たちに語り続けている